— 未分類 —

私そのもの

 

本当の自分とそうじゃない自分、日常を営み続けながら自分をみつめることで気づくことができます。この本来の自分がわかるということが出来れば、自然に無理せず自分の進む道に傾いていけることだと思います。この「わかる」という感覚を忘れてはいけません。

何が起きてもそこに帰ることです。人の態度や意見に左右されたたり、世間の風潮や一般的な物事の尺度で測ろうとするとまた迷路をさ迷うことになります。自分にとって何が大切で何が関係ないのかを本当の自分が教えてくれる。それを信じて進むことが今の私のできることだと。。。

人生はあっという間に過ぎ去ってしまう毎日の積み重ねです。そんな風にあっという間に過ぎ去っていく毎日をどう過ごしていくのか。これからが始まりです。始めることはどこからでもできます。何度もやり直しそこからまた始めるのです。

そして本当の自分とそうじゃない自分、どちらも私自身で私そのものです。そうじゃない自分がいなかったら本当の自分にはで会えなかっただろうし、そこに気づくこともできない。そう思うとお互いになくてはならい存在なのです。

 

そんなことを考えていた中でとある事件がありました。

私の知らぬ間に娘が公文教室をおさぼりしていました。それも2日も。。。先生から電話

があり、「最近来てないけど何かありましたか?」「えっ!!!行ってますけど。。。」行ってると思いこんでいただけであり。。。。空いた口が塞がらず。。茫然と立ちすくんでしまいました。そう言えば、何日か前に私の母に公文に行きたくないと漏らしていたのを思い出し、先生にその旨を話しながら、先生も「ちょうど難しくなって来て、今が乗り越えるときだよ、みんな嫌になる時はある、でも逃げちゃいけない」ということを言っていて、私もそうだ、そうだとうなずきながらこれからの娘への対応を話し電話を切りました。びっくりです。色々とやらかしてくれます。さも行って来たような顔をして過ごしていたなんて信じられません!!「この野郎」と心でつぶやきながらソファーに座り、クッションで顔を隠している娘に怒らず聞いてみした。「公文、嫌になっちゃったの??」娘はうなずいて、私が不思議と穏やかなことが分かると、その理由を話し始めました。理由は予想どおりで、娘には先生に言われたことと私の考えを伝えその日はさらりと話を終えました。あまりくどくどと言っても何の効果はないのは経験済みなので、次から普通に行ってくれればそれでいいことだと思います。

しかしまぁ、この私に平気で嘘をつき、その上、この家で平然と暮らしていたなんて、なんとも図々しいというのか、私を甘くみてるというのか、いったいあの子は何んなんでしょうか!!

壁一面の本棚ならマルゲリータがおすすめ